実力がないのに超進学校へ入学した
私は、名古屋市出身のサラリーマン(33歳)です。
私は、これまでの人生でそこそこ後悔していることがいくつかあり、そのうちのひとつに、進学する高校の選択ミスというものがあります。
高校選びで失敗したというと、受験勉強を全然せずに荒れている高校へ進学してしまったとか、第一志望の公立高校へ行けずに部活もできないような勉強ばかりの自称私立進学校へ進学せざるを得なかったとか、そういった話が多いのかもしれません。
でも私の場合は反対です。さほど実力がないにもかかわらず、内申点だけ高かったために推薦入試で県内でNo1と言われる超進学校(公立)にうっかり入学してしまいました。
必死に努力して入学した人もたくさんいるはずなので、うっかりというのはひんしゅくを買いそうですが、私はこのブログで、「ふつうにしていれば校内の成績上位3割付近にランクインできるレベルの高校」に入学する選択をとるべきことを、現役中学生もしくはその親御さんにお伝えしたいです。
中学時代までの話
私は、ごく一般的な家庭の三男として名古屋市に生まれました。 お兄さん2人が地元のスパルタなサッカークラブ(当時はそこそこ有名でした)に小学生低学年のうちに加入しましたので、私も自動的に6歳で当クラブに加入しました。
火・水・金の3日は夕方5時半から9時まで練習、週末は試合がたっぷり(この頃の話はまた別のときに書きます)。当クラブは、中学生までを対象としていたので、私は中学3年生になるまで10年間、当クラブに通ったことになります。
まわりからは典型的なサッカー少年に見えていたと思いますが、実際はスポーツ全般に関心が薄く、できればピアノや習字やそろばんを学びたいと常々思っていました。
両親は、子供3人の学校の成績にそれほど関心ありませんでした。
小学4年生までの私の学校の成績はちょうど平均くらいでした。
ある日、小学5年生になった私は、自宅に郵送されてきた「進研ゼミ」のマンガを読んで、母親に「やってみたい」といったそうです。母親も、子供が勉強したいといっているならいいか、とすぐに申し込んでくれました。
各単元の完了シールを貼りたいがために、毎月こつこつ勉強するようになりました。小学5年生から私は、成績がぐんと上がったらしいです。
小学校卒業直前に、担任の先生から、中学校の始業式で新入生代表として全校生徒の前で「新入生のことば」を読んでほしいと依頼されました。作文をして推敲を経て、中学校の始業式で発表しました。
中学1年生約270名のなかでいち早く優等生として認知され、まもなく学級委員にもなりました。
スパルタなサッカーはますますの激務になり、学校は休息所のように感じていました。
中学1年生のうちは、サッカーとサッカーの合間に進研ゼミで勉強していました。とはいえ、「進研ゼミが毎月郵送されてくる」ので取り組んでいただけで、とくに成績をあげたいと考えたことはありませんでした。
当時の順位はあまり記憶にありませんが、たぶん40位/270名くらいだったと思います。
中学2年生の夏休みに入る頃、母親が、3つ上の兄が中学時代に通っていた学習塾に、私もいったらどうかと言ってきました。
学習塾といっても、近所に住む高校受験に詳しい主婦の方が自宅で開業した小さな個人塾です。ちなみに、私の兄が第一期生です。ほぼマンツーマンで、その先生の自宅のリビングで勉強するような感じでした。
その兄が高校一年生になってからも、たまに先生のところへ勉強を見てもらいにいっていたらしいのです。母親は、中学2年生ごろから勉強がかなり苦しくなった兄を思い出して、お兄さんと一緒に私のことも先生に見ておいてもらおうと考えたようです。
私にとって夏休みは休みではなく、いつもにましてハードモードなサッカークラブは、毎日昼から夜まで練習があって、週末は試合ばかり、お盆には合宿でいつもへとへとでした。
そんな私は夏休み中、とりあえず言われたように午前9時に塾へ行き11時半頃まで勉強をして、帰宅後にお昼ご飯を食べて、午後1時からのサッカーの練習に間に合うように12時15分に自転車で練習場所へ出発する、という生活をしていました。
そして中学2年生の定期試験で、いきなり1位/270名になりました。
これには自分がいちばんびっくりしました。渡された成績表に「1」の数字が書いてあるのを見て「うわ1番だ」と友達に話したら、私が学年1位になったことは瞬く間に学年中に広まりました。
私は、サッカーで忙しすぎて、学校ではクラスメイトの話題についていけずにちょっと浮いていました。それに成績上位者は基本的にみんな地元の大手塾に通っている人たちだったので、その塾にいない私が試験の成績でトップになったことは、私をよりいっそう得体のしれない謎男子に仕立て上げました。
夏休みに1か月ほど塾に通っただけで、学年1位になりましたので、塾の先生は大喜びだったと思います。きっと私にもっと勉強させたかったのだと思いますが、夏休み以外の通常期は、サッカーと学校で週に1回(2時間半)しか塾に通えませんでした。
2学期に鮮烈な1位を獲得したものの、勉強時間の確保は困難を極めて、三学期には10位くらいになりました。それでも私は、ごくふつうに学級委員をしたり授業中に発言したり先生と雑談をしたりしていたため(?)、内申点は44点(家庭科が4だったか)とほぼオール5でした。
中学3年生になると、進学塾に通っているクラスメイトたちはしわじわと高校受験モードになっていき、学校の先生たちも定期試験で難易度高めな問題を出題してくるようになりました。
私はというと、実は通っていたサッカークラブでの中学3年生の引退は、早くて中学3年生の8月、試合に勝ち進んでいって、最も遅いと翌年1月頃!になるということになっていました。
私の学年のサッカークラブメンバーはそこそこ強かったので、監督の期待を背負いながら、ますます練習は激しくなり、中学3年生の夏休みは一日練習が大半を占めて、勉強時間を確保することは不可能に近かったです。
同級生が受験の夏を過ごしているとき、私はひたすら外でサッカーをしており、疲れ切った体で夜9時からせいぜい1時間くらい勉強をするのが精いっぱいでした。
中学3年生の夏休みが終わる頃に、塾の先生が私の自宅を訪ねて母親に苦言を呈したそうです。
「いったいサッカーはいつになったら終わるんですか」
中学3年生の頃の成績は高校受験に向けて下降気味で、20位/270名前後をうろうろとしていました。でも、タチの悪い熱のように内申点はなかなか下がらず、最低でも42点を維持していました。
サッカークラブを引退したのは、結局、中学3年生の12月初旬でした。
とある大会で、名古屋市大会、愛知県大会を突破し、東海大会に出場したものの惜しくも全国大会を逃した、という結果でした。当時のメンバーからすると期待以上の成績だったと思います。
私は、勉強こそこつこつとやってきていたものの、高校受験について調べることもせずに12月を迎えたので、兄が通っていた高校以外の学校名をひとつも挙げることすらできない状態でした。
ある日、大のサッカー好きの父親に、高校選手権の試合の観戦に連れていかれました。正直なところ、サッカーはずっと苦しかったので、高校生活はサッカーなしでのんびりしたいと思っていました。
でも、初めて目の前で高校サッカーを見て、サッカーはそんなに好きじゃないけど人よりも得意であることは間違いないのだから、ほどほどに続けてみてもいいかと思うようになりました。それに、強豪の私学でなくてあくまでも公立高校へ行く話なので、これまでのスパルタ訓練に比べれば練習は楽であることが見込まれたからです。
そういうわけで、公立の進学校の中で、当時最もサッカー部が強かった学校へ進学しようという気になりました(これ、中学3年生の12月時点です笑)。
それが、県内No1とされる超進学校でした。
進路相談で、担任の先生からは「定期試験の順位からすると合格は厳しい。でも、内申点の高さとサッカーでの東海大会出場の実績で推薦入試ならチャンスあるかも」と言われました。
私は、塾の先生に志望校を伝えました(中学3年生の年末です笑)。先生は、「そうね」くらいのことをつぶやいただけでした。
後日、塾の先生は私の自宅まできて息切れしながら母親にまた苦言を呈しにきたそうです。
「志望校を本人さんから聞きましたけど、あの学校に合格するような子たちは小さいときから勉強を継続してきて、中学校3年間でずっと学年で一位の成績であるような子たちなんです。それをいまからどうかにすることなんてとても。。。」
母親はかねてから私に「近所の自転車で通学できる公立高校(内申点30点前後の学校でした)にでもいければいいよ」と言っていたくらいでしたので、塾の先生が感じた理不尽さを理解していなかったと思います。
先生からすれば、「もっと早くから勉強をすれば「私」をもっとずっと伸ばしてあげられたのにどうでもいいサッカーのせいでその機会を失い受験直前になって県内No1に行きたいと言われていったいどうしてくれるんだ」くらいの気持ちだったことでしょう。
私はようやくサッカーから解放された日々を過ごすようになりました。なんだかんだ、中学3年生のお正月明けでした。
ほとんど毎日塾に通いました。ただ、目標に向かって成績を上げようと頑張れるほど、もう私には体力も気力も残っていませんでした。夢の中のような、放心状態に近かった気がします。
志望校は、内申点が44点あると仮定しても、一般入試では当日点に88/100点以上は得点しないと合格できないと言われていました。
私は、1月下旬についに模擬試験をいくつか受験しました。結果はだいたい78/100点くらいでした。実のところ、私は受験勉強が最近始まったくらいに感じていたので、現時点でこの点数であることがまずいのかまずくないのかピンと来ていませんでした。
愛知県の公立高校の推薦入試は、現在もたぶん変わっていないかと思いますが、内申点と10分間の面接で合否が決まる仕組みでした。つまり、筆記試験はないわけです。
サッカーのない生活にちょっとなれたかなと感じていた矢先、推薦入試の時期になりました。
推薦入試当日、私は、緊張感もなく、10分間の面接で、サッカーのこと、将来のことなどをニコニコ顔のおじさん先生と楽しくお話をしました。
合格発表の日、私はひとりで高校まで合否の掲示板を見に電車を乗り継いでいきました。途中、合格の瞬間を家族で分かち合いたい親子連れたちをたくさん見かけました。
私の母親は、どういうわけだか合格発表の日に美容院を予約しており、「ひとりで見に行ってきて」と私に言いました。
高校に到着して掲示板をのぞき込むと、私の受験番号がありました。合格していました。
「お、合格してる」
中学校に戻り、担任の先生に合格したことを伝えました。
その後、帰宅しましたが、家にはまだだれもいませんでした。10分くらいすると、母親が帰宅して、お菓子を食べていた私に「どうだった?」と聞きました。
「受かってたよ」
と言いました。
母親は、私がいきなり学年1位の成績をとったとき以上にびっくりしていました。まさに「驚愕」、顎が外れそうでした。
「そんな、こんな、ことがあるんだね、あの学校にこの春からいくんだねえ。人生なにがあるかわからんねえ!」
こうして私は、受験勉強らしい勉強をせず、なぜか下がらない内申点と苦しかったサッカー人生語録を両手にもって、鉛筆も持たずに、各中学校で一番の天才・秀才が集まる超進学校の門をくぐることになったのです。
(高校時代の話は「高校受験の志望校は背伸びしなくていい②」へ)